
(牧山展望台から宮古本島をのぞむ:写真をクリックすると拡大します/シグマ、DP0 Quattro)
牧山展望台から、宮古本島をぼんやりと眺める。孤島のそばにある、さらに小さな孤島。何か考えようと思うのだが、見るだけで満足している。それに、たいした考えも浮かばない。ただただ、純白の雲が流れるのを眺めている。それで十分なのだ。

(牧山展望台:写真をクリックすると拡大します/シグマ、DP0 Quattro)
毎度のことだが、何の変哲もない風景に目を奪われる。とりわけ、道、に対して過剰に反応する自分がいる。いまはオートバイに乗らないが、かつてオートバイに乗っていたときは、ひっきりなしに枝道に折れてゆく。生涯、二度と走ることがないと思われる道を、走る。ゆっくりと、路地を走る。道があれば、そこには家があり、人生がある。まったく関わりあうことがないような暮らしを眺めながら、旅をつづける。旅がすごいのは、そういう風景を無限に差し出してくれることではないか、などと思ったりもする。この伊良部島の、なんの変哲もない農道を見たときも、瞬時にウィンカーを出し、路肩に停まり、写真を撮りはじめる。夏の雲と、道と、風にそよぐサトウキビ。それだけしかないのだが、では、実際に、他に何か、必要なものがあるのだろうか。

(牧山展望台:写真をクリックすると拡大します/シグマ、DP0 Quattro)
佐和田の浜。まったく人影がない。ときおり、観光客のレンタカーが走り抜けるが、停止することはない。僕はといえば、ウィンカーに手がのびる。ひとけがないのに、風景が騒々しい。夏の雲、岩、砂浜、水鳥、光、風、草の匂い・・・。またぞろ、路肩に車を停め、コンクリートの堤防によじのぼり、なんとか三脚を立て、シャッターを押す。別のカメラを三脚に置こうとしたら、手が滑った。歳をとると、手がおぼつかなくなる。小さなカメラは、コンクリートの堤防の端にぶつかり、さらに、歩道に激突した。情けない。レンズにつけていたフードが裂けている。だが、旅の途上では、トラブルこそ、記憶に残る。それも、あとから見れば、ある種、たのしい事故といえる。もちろん、生きて戻ってくるから、そんなふうに言えるのだが。それにししても、東平安名崎といい、この佐和田の浜といい、いったい、だれが、どうやって、こんな巨岩をばらまいたのだろうか。それが、気になって仕方ない。