先日、ブックファースト銀座コア店で、写真集を衝動買いした
ことを書いた。十年ほど前、私が「プロの写真家と広告クリエ
イター向けの業界紙」の編集に携わっていたとき、写真集の紹
介記事なども掲載していた。当時、写真集は、「重い、大きい、
高い」という性質が災いして、売上が伸び悩み、業界的には
「軽い、小さい、安い」という形に変化しつつあった。たしか
に、軽薄短小という形は、マスセールを目指すには必要な要素
にちがいないとは思った。
だが、今回、私が買った写真集は、おおむねどれも、重くて、
大きくて、高い。
そう、その写真集に惚れ込んだ者にとって、形や価格など、ど
うでもいいことなのだ、という当たり前のことに、いまごろ気
づいた。我ながら、情けない話である。大きいから買わない、
高いから買わない、というのは、しょせん、その作品を、しん
そこ欲しいとは思っていないということだろう。
私が買った写真集の1冊は、『SMOKE LINE
舎、2008年)だ。この本は、左右370ミリ、天地297ミリ、すな
わちA3変型版で、定価(税込)が5,250円。まあ、たしかに、
大きくて高い。前言をすぐさまひるがえしてお恥ずかしいかぎ
りだが、衝動買いでなければ、躊躇したかもしれない。
だが、家に持ちかえり、後日、あらためてじっくり読むと、そ
の素晴らしさが身に染みる。ああ、実際に、こんな風景に出会
ったら、どれほどため息がでることだろう、と。もちろん、だ
れもがそう感じるとは思わない。どんなに優れた評価を受けた
写真集でも、それを見ている自分が好きでなければ、意味がな
いのだ。
どちらかというと、私はポートレイトやドキュメンタリー写真、
動物写真などが苦手である。いや、苦手というより、よくわか
らない。単に、風景写真だけに惹かれる。
なぜ風景写真だけが好きなのか、自分でもよくわからない。少
なくとも、作為を気にしなくていいという理由には納得できる。
自然は、かりに作為的に何かをしても、それは「自然」と呼ば
れるにすぎない。自然は、レンズを向けられても、何かを意識
したりはしないだろう。
もちろん、撮るという行為には、作為が忍び込んでいるはずだ。
だが、芸術において、作為というのは、表現にほかならないだ
ろう。そして、表現が背景に消え去れば去るほど、見る者は無
意識に、その表現の意図のなかに深く入りこんでいく。
まあ、屁理屈はともかく、敬虔な気持ちになれる写真集だ。
見開きにパノラマ風に展開する風景写真。大地や海は、画面の
5分の1ほどの割合で、下側におかれ、ページ全体を埋めつく
すのは、ほとんどモノトーンに近い、たとえば、乳白色だけの
空だったり、霧がたちこめる空間だけだったりする。
風を追いかけながら、中国、モロッコ、モンゴルを旅する写真
家・津田直が、風を追い求め、とらえた写真、ということらし
い。
だが、私には、風が見えなかった。
もちろん、そんなことは問題ではないし、この写真集の価値を
低めるわけでもない。それどころか、風というものが、本来、
どんな姿をしているのか、再考をうながしてくれる。
では、何が見えたのか。
現代に生きる我々の時間感覚とはちがう、自然が時をきざむ、
そのきざみかたが見えるような気がしたのだ。
我々は、太古のむかし、自然と歩調をあわせて時をきざみ、そ
のふところで歌を歌い、日を拝み、微笑みを交わしていたので
はなかったのだろうか。
そのありさまが、乳白色だけにおおわれた空のなかに、浮かん
でいるような気がする。
これまで見たことのない、それでいて、きわめて懐かしい記憶、
という事態に、見る者を連れていってくれる。人類という破壊
者が文明という武器をたずさえて跋扈する前の、静かな、ある
いは、おそれおおい世界。
ときには、そんな世界に遊んでみることも必要だ。
自分がいま置かれた場所を考えてみるためにも。
興味のある方は、ぜひ手にとってごらんいただければと思う。
さて、この写真集の本文画像を紹介したいところだが、著作権
を尊重すべきだし、写真集は紙に印刷されたもので味わうべき
だと痛感する。
そこで、おこがましい話だが、私の写真で、私が感じた雰囲気
をお伝えしてみようと思う。あくまで冗談だと思っていただけ
れば幸いである。
(和田文夫)

(2006年6月24日 久米島にて撮影)
先日紹介なさってたターシャ・テューダーさんの本、
出会えて良かったと思える一冊でした