2009年03月23日

読書日記(005)2009年3月23日


『梶井照陰写真集/NAMI』を読んで




衝動買い写真集の第2弾は、『梶井照陰写真集/NAMI』(梶井
照陰著、フォイル発行、2007年)である。

とにかく、すごい! のひとことである。なんのひねりもない
感想でお恥ずかしいが、ページを繰りながら、実際、ぽつりと
呟いたことばではある。

ひたすら、波をアップでとらえた写真がつづく。A3変型判だ
ろうか、左右の見開きが760ミリ、天地250ミリの横長変型だ。
著者が何を表現したいのか、などという思惑はみじんも感じら
れない。ページをめくる人間は、ただひたすら、眼前の波頭を
じっとみつめるほかない。現場で、写真家が見ている波をその
かたわらで、息を殺して注視しているといった事態におかれる。

著者のプロフィールを見る。「高野山大学密教学科を卒業して、
佐渡島で真言宗の僧侶をしている」というくだりを読んで、妙
に納得している自分がいる。

佐渡。何度か、日本海の沿岸をオートバイで旅した記憶が蘇る。
鉛色の雲、どっしりと押し寄せる波。なにもかも、太平洋岸と
は密度というか、質量のちがう世界が広がる。

真言宗については、ほとんど知らない。だが、そう言われると、
この写真集の激しく暗くうねる波間から、マントラの呪文が聞
こえてくるような気もする。

写真の表現について、考えさせられる。
どう撮るか。文章でいえば、どう書くか、だ。そこには、経験
すなわち生き様や、その人のもつ独自の技術が滲みでてくる。
文章でいえば文体、写真でいえば、写体、というべきだろうか。
きわめて重要なその要素は、しかし、この写真集を見ていると、
どうも二の次のように思えて仕方ない。

何を撮るか。つまりは、そちらのほうに気が向いてしまう。自
然がおりなす無作為のふるまい、意図しない意図、自由闊達に
ふるまう自由さ、全体と部分のゆるぎないつながり・・・そん
なものが、ふと、見える気がする。どんなに混沌と乱れている
ときでも、そのなかにしっとりとした調和が保たれている事態
に驚きを覚えるのだ。波も、この星の生命の一部にちがいない
という事実をつきつけられる。

この写真集には、波が撮られているだけだ。だが、決して私た
ちが目にしない、波の摂理といったものが垣間見える。すぐれ
た写真家というのものは、徹頭徹尾、見つめる人なのだという
ことを改めて教えてくれる。

この現代に生きる私たちは、忙しく、情報に追いまくられ、日
々、何も見ていない。だが、もし、本当のあり方を何も見てい
ないとしたら、わたしたちは自分の所在がわかっていないこと
になるのではないか。

ふと、デイヴィッド・ソローがこの写真集を見たら、どんな感
想をもらすか、他愛のない妄想をして、笑みがこぼれた。

さて、まことにおこがましいばかりだが、自分が撮った写真の
なかから、この写真集の雰囲気をわずかでも伝えられるものを
探してみたが、当然のことながら、そんなものは見あたらない。
が、顰蹙を恐れず、1枚だけ、載せてみることにする。2006年
に、台風が接近している沖縄・宮古島のイムギャー近くで撮っ
た写真である。
                       (和田文夫)


006_06-07-11_153.jpg





posted by サンシロウ at 06:13| Comment(1) | TrackBack(0) | ★読書日記
この記事へのコメント
いいすねえ。もぐりこみたいです。
Posted by watanabe at 2009年03月23日 11:08
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