2009年04月15日

読書日記(007)2009年4月15日

『幼年期の終わり』アーサー・C・クラーク著




ずっと読めずにいたアーサー・C・クラークの『幼年期の終わ
り』を読了。衝撃を受ける。

物語は、地球の各都市の上空に、巨大な宇宙船がやってきて待
機するところから始まる。姿を見せない異星人オーヴァーロー
ド(最高君主)は、人類をどこへ導こうとしているのか・・・。

私たちは、日々、つましい暮らしを送っているが、それでも、
さまざまな問題に取り囲まれている。介護や高齢化社会、教育
問題、非正規雇用、賃金格差など、もりだくさんだ。

しかし、問題はそれだけにとどまらず、世界に視界をうつすと、
終わりなき民族紛争、軍事衝突やテロ、環境破壊、貧困と格差
の激化、世界金融の暴走など、あきれるばかりの混乱だ。

なんとか一つの問題を解決すれば、そのことで、さらに多くの
問題を引き寄せ、混沌はふかまるばかりのように見える。おま
けに、人類は基本的に、「人間のことしか考えていない」。だ
れも、ひぐらしやニシンや菜の花や原生林のことなど考えてい
ない。人類は、いまだ幼稚な存在のままで、大いなる調和を生
み出せないでいる・・・。

我々が日々抱える、そうした問題に、外部から「ある」解決方
法が示される。それも、人類以外の存在から。人類より、はる
かに高度な知能と文明の力をもった存在から。

それにしても、現実の世界は、幼年期を脱するどころか、ます
ます幼稚になっていくように見える。いったい、この星に未来
はあるのだろうか、いや、そもそも、人類は愚昧な存在でしか
ないのか、などと悲観しつつ、この本を読むと、大いなる啓示
を受けるかもしれない。

・・・などと、『幼年期の終わり』を読みながら妄想にふけっ
てしまったわけだが、それだけなら、まだ傷はそれほど深くは
ないかもしれない。

私が衝撃を受けたのは、文学のテーマについてである。人が生
きる目的は何か。『幼年期の終わり』を読むと、その再検討を
迫られているのではないかと思ってしまった。

このSF小説が決定的に深く困難な問題を突きつけてくるのは
「文学」も「人生」もしょせん、「人間の世界の問題にすぎな
い」ということを気づかせてくれるからだ。

そう、『幼年期の終わり』は、地球という星で鎖国(鎖球とい
うべきか)している人類の姿を浮き彫りにする。

人類が人類だけの問題に右往左往している姿のもっと外側、宇
宙全体が存在することの意味はいったい何なのかを、問いかけ
ているのだ。壮大な問いである。壮大ならいいのか、というこ
とはともかく、宇宙史というものがあるとすれば、そのなかの
人類史など、刹那ほどの長さもないだろう。

広大無辺な宇宙の片隅で日々をおくる人類が、宇宙的視野の存
在論を持ちうるのかどうか。

ここでわれわれが思いいたるのは、存在論なのだ。
森の奥で、かすかにシダを揺らした風が、宇宙の果て、膨張を
つづける境界の縁で、どのように吹きわたっているのか、それ
を書かなければならない。
それが、想像力をさずかった人間の仕事ではないか。

なにやら、埴谷雄高の世界にはまりこんだ気分だ。漆黒の闇の
なかで黒い馬の尻尾を握りしめ、はるか宇宙のかなたに飛翔し
ながら、われわれは宇宙の真の姿、その意思を感得できるのだ
ろうか。あるいは、人類の存在など、迷妄以外のなにものでも
ないと、ため息をつくのだろうか。

それは、自分で「つきとめて」いくしかないようだ。

とはいえ、久しぶりに、「お勉強」のためではなく、愉しい読
書の時間をすごせたのは、おおいに収穫だった。小説は、やっ
ぱり、夜の更けるのも忘れて、のめり込むのが一番。

ちなみに、『幼年期の終わり』が出版されたのは、1953(昭和
28)年だが、少しも古さを感じさせない(光文社古典新訳文庫
の訳者のおかげかもしれない)。ようやく私は、クラーク、ア
シモフ、ハインラインという、50年代のSF黄金時代の御三家
が大好きなのだということに気づいた。
                        (和田文夫)
posted by サンシロウ at 05:03| Comment(1) | TrackBack(0) | ★読書日記
この記事へのコメント
「壮大ならいいのか、ということはともかく」のともかくはトルツメで、展開お願いします。
それにしても、私は、現実のSF性に驚かされます。ま、無限分の1として、ボチボチ暮らしていこうや。
Posted by at 2009年04月15日 17:07
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