舞台設定はきわめてシンプルだ。「八十分しか記憶を保持できない」老数学者と、彼の身の回りの世話をすることになったシングルマザーの家政婦とその息子の交流を描いている。
テレビをつけると、中東の民族紛争や東南アジアの政治的混乱、国会の泥仕合から防衛施設庁の談合やら青少年の刺殺事件など、世の中は激動につぐ激動で、とどまることがない。
だが、いったんテレビのスイッチを消し、小春日和の午後一時、庭へ出て、毎年、おなじ場所に顔をだす福寿草の黄色い花を見たりして一日を過ごしてみると、世界は思っているより静かなことに気づく。
どちらが本当の世界なんだろう。
クライアントのオフィスでプロモーションの会議を三時間ほどしての帰途、地下鉄の駅へ向かう途中、公園の概念をくつがえすほど狭い公園で、お母さんと子どもがのんびりと遊んでいる。
オフィスも公園も同じ空間でつながっているが、おなじ世界とは思えない。空気の密度さえちがうように感じる。どうやら、おなじ世界とは思えない世界が無数に集まって、ひとつの世界を構成しているようだ。
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「博士の愛した数式」は、無菌室にいるような、静かな小説だ。殺人事件も起きなければ、運命的な恋愛の出会いもなく、淡々とした日常が進んでいく。その静けさは、つましい、奥ゆかしい暮らしから漂ってくる。
家政婦の息子の誕生日パーティをすることになり、博士と家政婦親子の三人が手作りでパーティの準備をする場面がある。
「各々三人に役目があること。お互いの息遣いがすぐそばに感じられ、ささやかな仕事が少しずつ達成されてゆくのを目の当たりにできることは、私たちに思いがけない喜びをもたらした。オーブンの中で焼ける肉の匂い、雑巾からしたたり落ちる水滴、アイロンから立ち上る蒸気、それらが一つに溶け合い、私たちを包んでいた」
家事は、いまや、可能なかぎり回避したい、うんざりする作業になってしまった。私たちには大きな夢があり、雄大な野望があり、自己実現へ向かって忙しい身だ。だから、衣食住などの瑣末事にかまってはいられない。
ふと、ある絵日記の一節を思い浮かべた。
「1948(昭和23)年6月21日……おばさんのうちへせっけんをかいにいきました。十五円のをかいました。そしておうちにかえっておせんたくをしました。一ばんはじめにわたしのようふくをあらいました。二ばんめはおかあさんのをあらいました。そのつぎはひでぶみちゃんのおむつをあらっているとおかあさんが「ありがとう あらってあげよう」とおっしゃったのであとのこりをあらってもらいました」
(『こどもたち こどもたちーー1948年・1954年の絵日記』森芳子/森秀文/鶴見俊介/谷川俊太郎、近代出版、2002年)
まえがきで、鶴見俊介が書いている。
「この時代のこどもの絵日記には、あとの時代にない、人間の暮らしの形がみえている。……戦争文明の進歩の終ったあと、敗戦のやすらぎが、しばらく日本人に広く共有された。時代の気分が、このこどもたちの絵日記にある。私たちはそのころ、生きていることをたのしんだ」
ただ生きていくことが楽しさから面倒くさい雑務へかわったとき、私たちは何を失い、何を手に入れたか。たしかに、人はパンのみで生きてはいけないかもしれない。充足の確度は、こころの実感というおぼろげな計測値より、銀行の預金残高や年収のほうがわかりやすい。
では、私たちはどこへ行こうとしているのか。
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「八十分しか記憶を保持できない老数学者」に、主人公の家政婦は慣れ親しみ、恋や愛ともちがう慕情を育んでいく。それまで何人もの家政婦が担当するが、長つづきしなかった。
主人公の家政婦は、なぜ博士を受け入れるようになったのか。彼女が、割り切ったからだと思う。つまり、八十分しか記憶が保たない相手(条件)に、プロの家政婦として対処したからだ。
僕は今、今年で86歳になる老母と暮らしている。わが老母は幸い、認知症にはなっていないが、直近の記憶が怪しくなってきた。同じことを何度も聞かれ、閉口し、時には怒ってしまう。
この小説が人ごとではないと思ったのは、そんな事情もある。八十分しか記憶が保たない人とどうつきあえばいいのか。それは、八十分しか記憶が保たないと割り切ればいいだけだ。八十分しか記憶が保たないことは、その人の人格に関わることではなく、その人の生きている世界が、そのような仕組みになっていることを理解することである。
この小説は、人を敬うこと、ささやかな暮らしのなかに潜む楽しみをきちんと実感すること、を無菌室のなかで培養し、私たちに見せてくれる。
(和田文夫)