このところ、伊坂幸太郎に熱中している。
たぶん、波長があうのだろう。
もちろん、かなりの注目を集めていることは、たしかだ。
もし、伊坂幸太郎を読んでみようと思う人がいたら、まずこの「オーデュボンの祈り」から読むことをお勧めしたい。
実は、伊坂の作品群は、相互にリンクしている。たとえば、Aの作品の登場人物が、Bの作品にちらりと出てきたり、Aの作品のストーリーが、Cの作品で話題になったりする。
伊坂自身、「実際、今までの短編と長編はすべてつながっているんですよ」と語っている。
(「このミステリがすごい! 2004年版)
発行順に読まないと、その仕掛けに「にやり」とできないのだ。これは、読者サービスのように思えるが、作家にとっては、一つの作品世界の奥行きを広げる手法にもなり、また、「作品を最初から読ませる」戦略ともなる。
私は、最初に「魔王」、つぎに「死神の精度」という順に読みはじめてしまい、失敗に気づいた。ちなみに、私の手元にある作品を、発行順に並べてみよう。
オーデュボンの祈り 2000年12月
ラッシュライフ 2002年 7月
陽気なギャングが地球を回す 2003年 2月
重力ピエロ 2003年 4月
アヒルと鴨のコインロッカー 2003年11月
チルドレン 2005年 5月
死神の精度 2005年 6月
魔王 2005年10月
もちろん、どの作品から読もうとそんなことは読者の勝手だし、各作品は単独で十分楽しめるので、わけしり顔で忠告するつもりはないが、最初に読むなら、やはり「オーデュボンの祈り」だろう。
★
さて、伊坂幸太郎のおもしろさとは、なんだろう。
一つは、構成の緻密さであり、
一つは、舞台設定(世界観)の新奇さで、
一つは、魅力的な文章、だろう。
文庫版「オーデュボンの祈り」の表4(カバーウラ)のストーリー紹介は、以下のようになっている。
「コンビニ強盗に失敗し逃走していた伊藤は、気付くと見知らぬ島にいた。江戸以来外界から遮断されている『荻島』には、妙な人間ばかりが住んでいる。嘘しか言わない画家、「島の法律として」殺人を許された男、人語を操り「未来が見える」カカシ。次の日カカシが殺される。無惨にもバラバラにされ、頭を持ち去られて。未来を見通せるはずのカカシは、なぜ自分の死を阻止出来なかったのか?」
まるでリアリティのない、ふざけた話だ。
バカらしくて、読む気も起こらないだろう。
だが、1ページめの書き出し
「胸の谷間にライターをはさんだバニーガールを追いかけているうちに、見知らぬ国へたどり着く、そんな夢を見ていた。悪い夢ではなかった。何よりも、城山が出てこなかった。」
を読みはじめると、吸い寄せられるように、読み手は作品世界に没入してしまう。語り手である主人公は、あくまで、読者と同じ世界に生きている人間として描かれる。彼は、どちらかといえば、どこにでもいる、おとなしく、品のいい「ややふつう」の青年だ。
尋常でないのは、その「ややふつう」の人間が踏み込んでしまった奇妙奇天烈な世界のほうだ。そのにわかに信じがたい世界で、しかし、「ややふつう」の人間は、とまどいながらも、それを受け入れ、したたかに生き抜いていく。
たしかに、物語の体裁はミステリ仕掛けになっているが、ここには、物語が本来もっている「新奇さ」にあふれている。主人公は、純文学の世界のように、意識を内面へは向かわせない。自分をいかに掘り下げても、世界は変わらないからだ。しゃべるカカシは、主人公がいかなる論理的思考を働かせても、しゃべることにかわりはないからだ。そこで主人公は、世界の謎を解こうとして、行動を起こしていく。
余談だが、私は、この書き出しの「城山」という名前を見て、にやりと笑ってしまった。フランツ・カフカの小説「城」の書き出しは、こんな文章ではじまる。
「Kが到着したのは、夜もふけてからであった。村は、深い雪に埋もれていた。城山は少しも見えず、霧と闇が山を包んで、大きな城のあることを示すほんの微かな燈火さえも見えなかった。」
(カフカ全集 第1巻「城」辻ひかる、中野孝次、
萩原芳昭訳、新潮社、1953年)
萩原芳昭訳、新潮社、1953年)
おそらく何の関連性もないだろうが、この「城山」の奇妙な一致、何かの間違いとしか思えない世界に足を踏み込んでしまったKの困惑が、「オーデュボンの祈り」の主人公と似ているように感じたのである。
★
さて、伊坂幸太郎の登場人物たちに共通するものは何だろうか。
一つは、ユーモアであり、
一つは、人としての品位であり、
一つは、世界を見つめるふつうの良識、ではないだろうか。
われわれはいま、騒々しい、たんなる馬鹿笑いをするための低次元の笑いしか持っていない。なんの機智も持ち合わせず、人を勇気づけるのではなく、人間の品位を落とし込めるような幼稚な笑いばかりがまかり通っている。
一方で、深刻な問題は深刻な顔をして、ヒステリックに嘆いたり、怒りをあらわにして正義を叫んだりする。要するに、わたしたちは、日々、垂れ流されつづけるテレビの感受性を身にまとっているだけなのだ。
「今の人類は、進化の方向を間違えてしまったのではないか。もとのままの「下等」な動物でいたほうが、もっと楽に生きられ、楽に死ねたかもしれない。地球をここまで追いつめることもなかったでしょう。残忍でウソツキで、嫉妬深く、他人を信用せず、浮気者で派手好きで、同じ仲間なのに虐殺し合うーー醜い動物です。しかし、それでもなお、やはり、ぼくは人間がいとおしい。生きる物すべてがいとおしい」
(「ガラスの地球を救え」手塚治虫著、光文社、知恵の森文庫)
と、手塚治虫は語っているが、
「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」
(「重力ピエロ」伊坂幸太郎)
と語る伊坂の主人公たちが、手塚の生み出した主人公たちの姿に重なると感じているのは、私の思いすごしだろうか。
★
伊坂幸太郎は、いちおうミステリのジャンルに分類されるようだ。実際、わたしはその名前を「このミステリがすごい! 2004年版」で知った。しかし、彼の作品世界は、どうもミステリのワクに収まらない。
いや、そもそも、ミステリとか、SFとか、純文学とか、何を意味する分類方法なのだろうか。
先日、酒場で知人と同席し、小説についての話題になった。ちなみに彼は、大藪春彦のファンで、また、最近のアメリカTVドラマ「24」のファンでもあり、意気投合してしまった次第。
彼いわく。
「それにしても、小説のジャンルって、よくわかりませんよね。たとえば、何が純文学で、何が純文学でないのか。夏目漱石の「我が輩は猫である」なんて、SFじゃないですか」
愕然とした。言われてみれば、その通りだ。わたしたちは、文豪・夏目漱石先生の文学作品を拝読するというより、「こりゃ、おもしれえや」と感じながら、「坊っちゃん」や「猫」を読んでいたのではなかったか。
うーむ。編集者の端くれとして、小説家の端の端の端くれとして、わたしは自分の無知に背中をどやしつけられた気がする。D・R・クーンツの指摘を待つまでもなく、ジャンル小説という言い方、あるいは小説のジャンル、という先入観は、無意味だ。
小説か、小説でないか、しか、区分はないはずだ。もっと言うなら、文章で表現された、可能性としての世界が、おもしろいか、おもしろくないか。
では、「おもしろさ」の実態とは、どういうものなのか。それは今後の我が課題というほかないが、伊坂幸太郎の作品には、ジャンルを吹き飛ばす爽快感があることだけは確かなようだ。
(和田文夫)
「オーデュボンの祈り」読みました。
伊坂さんの本はまだ3冊目ですが、今後の読書にあたって参考になりました。ありがとうございました。
ジャンルを吹き飛ばす爽快感とは、言い得て妙ですね。