
〈片岡義男・1〉
年に一度、とりたてて用事もないのにふいに連絡してくる友人がいるが、
それとまったく同じで、ふと思い出し、片岡義男の本を本棚から抜き出す
ことがある。
きのう、その「ふい」がやってきて、本棚の前に立ったとき、片岡義男の
代表作はいったいなになのだろうとしばし考え込んでしまった。僕は、小
説のタイトルをつけるのが日本でいちばんうまいのは片岡義男だと思って
いるが、では代表作となると、にわかに思い浮かばない。
とりあえず、いいタイトルだなあと思う本を数冊、本棚から引き抜いた。
タイトルだけで、目の前に風景があらわれ、遠くへひろがってゆく。
これから旅へ出ようとしているときのように。
『彼のオートバイ、彼女の島』
『いい旅を、と誰もが言った』
『町からはじめて、旅へ』
そして、本棚のまえで立ったまま拾い読みをしながら驚いた。
文章が、新しい。
いま、出版されたばかりのような文章なのだ。
奥付をみると、『町からはじめて、旅へ』の初版が一九七六年四月三〇日。
三十四年前……。
これはいったいどういうことなのだろう。
たとえば、『町からはじめて、旅へ』のなかの「アタマがカラダを取り戻
すとき」というエッセイに、こんな文章がある。
開拓時代の西部の荒野に建っていた小屋のような民家を当時のまま
に復元したものが、アメリカの各地にある。なかに入って、つくづく
ながめわたすと、その小屋にあるものはすべて、道具なのだ。しっか
りとした、頑丈そうな、単純で有効性の高い道具ばかりなのだ。
未開拓の西部、という自然のなかに入りこんできた人間たちにとっ
て、このような道具類のいっさいが、自然と自分たちとの、動かしが
たい接点であったわけだ。その道具類を使って文字どおり体を張って
いくという具体的な意味において、開拓小屋のなかにあるいろんな道
具は、その小屋にかつて生きた人たちの肉体の一部だったのだ。小屋
の壁にかけてある道具のひとつひとつから、かつての人々の肉体が、
生々しくよみがえってくる。
片岡義男の「ことば」とは、まさにここでいう、頑丈な道具そのものなの
ではないかという気がした。ハワイの日系三世で、完璧なバンリンガルと
いわれる片岡義男は、何十年使っても壊れない、堅固なことばだけを使っ
て自分の考えを積み重ねていったのではないか。
彼の文章から立ち現れてくるのは、青春とか、アメリカンカルチャーとい
った表面的なことではなく、英語と日本語というふたつことばを生きるこ
とによって、ふたつの世界の成り立ちをさぐること、つまり、徹底した文
明批評をしていたことに、ぼくはうかつにも、いまになって気づいた。
司馬遼太郎が「この国かたち」を彫りだしていたとしたら、片岡義男は
「この私たちのかたち」を見極めようとしていたのではないだろうか。