
とうとう『ダーク・スター・サファリ』の見本があがってきた。本文のページ数は、
696ページで、厚さ5センチ! 弁当箱とくらべても、遜色ないが、本文用紙にOK
アドニスラフという紙材を使っているので、見かけよりかなり軽く仕上がっている。
装幀に関しては、英治出版のユニークな方針もあり、シリーズ本ではあるが、あえて
仕様を統一しないで、それぞれの本の内容にふさわしい造本を追求している。
第一弾のブルース・チャトウィン著『ソングライン』、第二弾のニコラ・ブーヴィエ
著『世界の使い方』、そして今回のポール・セロー著『ダーク・スター・サファリ』
(以下、『サファリ』と略す)は、みな、判型がちがう。
それでいて、しっかりシリーズの統一がとれているのは、装幀を担当していただいた
大森デザインオフィスのおかげである。
編集をしていて、つくづく感心したのは、翻訳家のご苦労というものだ。仕事だから
当たり前だと言われそうだが、来る日も来る日も訳出作業や調べ物にあけくれ、問題
のある箇所では、数行訳すのに何時間もかかることがあるにちがいない。今回、翻訳
家の北田絵里子さん、下村純子さんには、とても丁寧な仕事をしていただき、大いに
勉強になった。
また、よくお客様は、一冊の本を手に取って、「これは、安いな」とか「なんで、こ
んなに高いんだ」と価格についてあれこれ感想を抱くが、翻訳書が一冊世に出るには、
原著者の執筆からはじまり、翻訳、編集、校正、装幀、印刷、販売、広告といった複
雑な工程を経ており、そのあたりが理解されないためだと思う。今回の『サファリ』
は、むしろ私などは、安すぎる(定価2,940円)と感じるが、まあ、我田引水かもし
れない。
さて。
『ダーク・スター・サファリ』だ。
著者はかつて、アフリカを支援したいという気持ちから、マラウイで学校の教師をし
ていた。ふたたび、その思い出の地を旅しようと思い立つ。日々の暮らしが少し煮詰
まってきた作家にとって、旅は、つねに人生の手応えを感じさせてくれるものなのだ。
誰とでも、いつでも確実に連絡がとれる世界など、恐怖そのものではないか。
そう思うと、まったく連絡のつかない場所……電話もファクシミリも、郵便配達
さえもない、古きすばらしき世界を見つけたくなった。音信不通でいられる、遠
く離れた場所を。
スワヒリ語の〈サファリ〉は〈旅〉を意味する。動物とは関係がなく、誰かが
〈サファリに出ている〉といえば、とにかく出かけていてつかまらず、音信不通
ということだ。
アフリカで音信不通になるのは、まさに私の望むところだった。
この旅の途上で還暦を迎えた作家にとって、誰もが肯定的に言う「つねにつながって
いる世界」は、おぞましいものであり、その齢に近づいた私にも、その気持ちは痛い
ほどよくわかる。そんなにつながっていて、いったい、何をしたいのか、と。
旅は、ほんとうの旅というのは、じつに孤独なものだ。
その孤独な旅というものが、いかに人を内省させるか、というのは興味深い話である。
日常生活の人間関係は、多かれ少なかれ、利害関係というものにからめとられており、
われわれはどこかで人との関係を値踏みしている。
だが、旅へでると、人は色眼鏡を知らぬまに外している。見知らぬ町の魚屋のおじさ
んは、魚を売りつけようとしている人間ではなく、その土地で生き抜いてきたひとり
の人間として立ち現れてくるのだ。だから、われわれは、そのひとりの人間をくもり
ない目で見つめ、ひるがえって、自分の生き方を考える。
ところで、作家というのは、人一倍、人が好きなのに人間嫌いともいうべき人種にち
がいない。『サファリ』を読んでいると、そんな気がして仕方ない。それはおそらく、
人が好きなゆえに、人に裏切られることが堪えがたいという性向からくるのではない
か。たとえば、『サファリ』にこんなくだりがある。
料金徴収係の十代の少年は、国境を発ってからずっと、私のことを〈白人(ム
ズング)〉と呼びつづけた。取るに足らない嫌がらせだと、最初は無視していた。
だがその若造は図に乗って、チェワ語でこう訊いてきた。「なあ白い人、どこま
で行くんだ?」(中略)
若造がいっこうに態度を改めないので、ついに私はーー悪路を行く、暗くて臭
いぎゅう詰めのミニバスの中でーー面と向かって言った。「君も〈黒い人(ムン
トゥ・ムダ)〉と呼ばれたいか?」
若造はとたんにしゅんとなって、むくれた。ミニバスはどうにかこうにか前進
しつづけた。私はまだ若造と向かい合っていた。
「ところで、君の名前は?」
「シモン」
「よし。〈白い人〉呼ばわりはやめてくれ。そうしたらこっちも〈黒い人〉とは
呼ばない。私の名前はポールだ」
「ミスター・ポール、どこまで行くんですか」シモンはしおらしい口調で言った。
だが、どこへ行くのか、自分でも決めていなかった。
還暦を迎えた作家が、孫のような若者と、真摯にやりあっている姿に、おもわずにや
りとしてしまう。どんな世界にも、いいやつと悪いやつがいる。だが、われわれは、
ひとりひとりの人間と真摯に向き合う必要があり、「アフリカ人というのは・・・」
「日本人というのは・・・」という紋切り型の見方は、人の目を曇らす悪癖だ。セロ
ーは、だれにでも(人の言うことをまともに聞く人間であるなら、という条件はつく
が)きちんと接しようとしている。
セローは、エジプト・カイロから南アフリカ・ケープタウンへの陸路を縦断しながら、
じっくりと、「人」と対面してゆく。アフリカ出身の作家、政治家、首相、タクシー
の運転手、娼婦、船員、車掌、そして、つねに毛嫌いしている国外の支援団体の人々、
あるいは、宣教師たち・・・。上からでも下からでもなく、対等にわたりあって。発
砲されたり、ぎゅう詰めのバスで事故にひやひやしたり、まとわりつく娼婦や強盗か
ら身を守ったり、ハイエナや蛇に襲われないようにしたりして、「安全な観光ルート
を選ばず」、おもいのままに道行きを楽しんでゆく。
700ページの、長い、あまりに長い道のりを読み進むうちに、私たちは、自分の周囲に
ある日常風景がぼやけてきて、セローとともにアフリカの地をともに旅している錯覚を
覚える。そうなのだ。読書もまたひとつの旅であり(もちろん、自分の足で踏破する
ほうがいいに決まっているが)ひとつの人生の経験であると言えよう。
おいそれとは行けない遠いアフリカ大陸を、セローとともに、ぜひ旅していただきたい。