2009年02月25日

編集日記(004)2009年2月25日(水)

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昨年、ブックファースト秋葉原店のご協力で、
ガイアート・コレクションのブックフェアを開催しましたが、
3月に、今度はブックファースト銀座コア店のご協力で
ふたたび開催することになりました。

先日、ブックファースト銀座コア店に行ってきましたが、
店内はゆったりとしたスペースで、とても静かなので、
気持ちよく本選びができるお店です。
ぜひ、足を運んでみてください。
                      (和田文夫)


★★★ ガイアート・ブックフェアのお知らせ ★★★
    ブックファースト 東京銀座コア店
    『孤島の発見』『沖縄正面』


3月1日(日)〜31日(火)まで、ブックファースト銀座コア店の
「MADOギャラリー」で、ガイアのブックフェアを開催します。

『孤島の発見』と『沖縄正面』のオリジナルプリントの展示&販売を行います。
期間中に本をお買上いただいた方には、それぞれ「オリジナルプリント・
ポストカード(3枚セット)」をプレゼントいたします。

   期間 ★ 2009年3月1日(日)〜3月31日(火)
        不定休(年6回)
   時間 ★ 午前10時〜午後10時
   場所 ★ ブックファースト 銀座コア店 Mado GALLERY
        東京都 中央区 銀座5-8-20 銀座コア6階
        東京メトロ銀座線・日比谷線 銀座駅


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2009年02月22日

編集日記(003)2009年2月22日

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(宮古島・来間島にて:2005年1月17日撮影)



金曜日の深夜、仕事の手を休め、コタツに入って熱燗など飲みながら、
ぼんやりとテレビを見る。画面には、うっそうたる緑の庭の小道にた
たずみ、美しい花々を眺める高齢のおばあさんの姿。やがて老女は、
やせ細った体を折り曲げるようにしゃがみ、伸び放題の野草を、のん
びりとむしりはじめる。

ふいに、目頭が熱くなってきた。えっ? 僕はいったいどうしてしま
ったのだろう。歳かな。涙腺が開きっぱなしになっているのだろうか。
とにかく、しみじみとした感動のなかにいる。それも、ただ、老婆が
草むしりをしている姿を見ているだけなのに・・・。

番組は、アメリカの絵本作家、園芸家ターシャ・テューダー(1915〜2008年)
のドキュメンタリー番組だった。ターシャ・テューダーの名前だけは、
知っていた。書店などで、ターシャの庭の写真集が何冊もディスプレ
イされているのを見たことがある。だが、ベストセラーをきらう、へ
そ曲がりな我が性格のせいか、庭ブームに便乗した、お手軽なシリー
ズにちがいないと、たかをくくっていた。まさに、編集者失格である。

番組収録当時88歳のターシャ・テューダーの薄くなった白髪、やせ
細った腕、落ちくぼんだ目は、現在89歳のわが老母の姿と重なる。
もっとも、こちらはますます頑固になり、老化していく姿に手を焼く
ばかりだが。それはともかく。

ターシャにとって最高のひととき、それは午後おそく、テラスのロッ
キングチェアーに座って飲む、一杯のお茶の時間だ。ターシャは、と
てももの静かで、謙虚で、それでいて、ぴんと一本の筋がとおったゆ
るぎない視線を孤空に投げかける。

私の目頭が熱くなったのは、おそらく、彼女の悲しみを見たからでは
ないだろうか。ひがな一日、ひとりで庭の花々や草木を相手に、孤独
な時間を過ごしている老婆の、寂しさを考える。寂しさとは、ひとり
ぼっちの自分を悲しむことでは、決してない。この世界の、命あるす
べてのものが朽ち果て、消滅し、また生まれ、育っていくことの道を
しっていることだ。喜びとは、寂しさの大地にひっそりと咲く一輪の
花のようなものだ。ターシャの眼差しを、私はそう解釈したのかもし
れない。

ターシャを見ていて、ふと、マザー・テレサを思い浮かべ、また、
ヘンリー・デイビッド・ソローを思い出し、さらにアーミッシュの暮
らしが脳裏によみがえる。

あとで調べてみると、ターシャの曽祖父・フレデリック・テューダー
は、ソローの『森の生活』に登場しているそうで、ターシャ自身、ソ
ローの暮らし方、考え方に深い影響を受けているという。
私は、自分の無知を罵倒する。

ターシャは、1972年、57歳のとき、バーモント州の南部にある小さな
町、マールボロに30万坪の土地を買い、移り住み、新たな人生をはじ
める。文明の便利な道具をさけ、19世紀のアメリカ開拓時代のスタイ
ルにちかい自給自足の生活を営んだ。もちろん、本格的に、自分の庭
をつくりはじめる。家具職人である息子が、18世紀の工法を研究し、
たった1人でターシャの家を造りあげたという。

57歳で、じぶんの暮らしの行く末をかんがえ、実行にうつし、亡く
なるまで、ずっとその暮らしを貫いてきたターシャに、ただただ畏敬
の念をおぼえるばかりだ。エコだ、スローライフだと、口先で、きれ
いごとを並べることは、たやすい。しかし、多くの欲望を捨てさり、
実際に、その暮らしのなかに入り、それをずっとつづけていく、その
ことの難しさを、想像してみる。

たいした年収もないのに、プール付の豪華な一戸建てを借金(ローン)
して買い求め、その債権が姿形をかえ、金融商品として流れ流れ、世
界金融を破壊したアメリカに、ターシャのような人間がいることをあ
らためて考えてしまう。

あなた自身は、どんな暮らしをおくりたいのですか。
そんな問いかけが、決して多くを語らないターシャの眼差しに潜んで
いるような気がした。

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(宮古島・下里、宮古空港ちかくにて、2007年7月10日撮影)


(写真・文 和田文夫)
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2009年02月16日

編集日記(002)2009.2.16(月)

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(2007年3月11日 撮影:宮古島 盛加井御嶽にて)


『ソングライン』を読んで

去年の暮れ、英治出版からゲラの校正を依頼された。
校正とは、基本的に文字を読んではいけない。
文字を「見なければ」ならない。
「勅礼」が「勅令」のまちがいだと気づかなくてはいけない。
ところが、気づくと、文脈を追っている。イメージを思い描いている。
慌てて、何度も活字を追うはめになる。
それほど、興味深い、おもしろい本だった。

タイトルは、『ソングライン』。
著者は、英国の作家ブルース・チャトウィン(1940-1989)で
『パタゴニア』(邦訳:芹沢高志訳、めるくまーる、 1990年)
を読んだ人も多いだろう。
原本は、1987年の刊行で、1994年に芹沢真理子訳で、
めるくまーるから『ソングライン』として邦訳されたが、
長らく品切れ状態だったという。



たとえば、こんなくだりを校正していると、目は文字から離れ、
頭のなかには、オーストラリアの赤い大地が浮かんでくる。

「アボリジニは大地をそっと歩く人々である。大地から受け取るものが
 少なければ少ないほど、返さなくてはならないものも少なくてすむ。
 キリスト教の伝道師たちが罪のない生け贄を差し出すことをなぜ禁じ
 ているのか、彼らには少しも理解できなかった。アボリジニは、生け
 贄として動物や人間を殺すことはしない代わりに、大地の恵みに感謝
 したいときには、自分の腕の静脈を切ってその血を地面にまく。」
   (『ソングライン』北田絵里子訳、英治出版、2007年)

アイヌやモンゴルの遊牧民、イヌイット、ネイティブアメリカンなど、
先住民の知恵や生き方がいま見直されているが、なぜだろう。
文明と進歩の名のもとに、大地や空や海や動植物を徹底的に
奪いとってきた現代文明、人類の果てしなき欲望に対する
反省がはじまったのだろうか。

こども時代、ぼくらはネイティブとよく似ている。
森や川のなかで歌をうたいながら、あれはカッパ沼、
赤土山、ノコギリ山、などと自由に名前をつけながら
その場所に親しんでいく。もちろん、危険とも。

こどもにとって自然は友だちであり、教室であり、生きる場所で
あり、試される場所、なのだ。
こどもは非力だから、ある点では分をわきまえていて、
ブルドーザーで山を根こそぎ削ってマンションなど建てないし、
川をコンクリートで囲んで遊び場をなくすようなことはしない。
それが大人になると・・・。

ゲーリー・スナイダーは『野生の実践』のなかで、
こんなふうに語っている。

「ソローは、「どんな文明も堪えられないほどの野性が欲しい」と
 言っているが、それを見つけるのは難しいことではない。むしろ、
 野性が堪えることのできる文明を探しだすことのほうがはるかに
 難しい。しかし、まさにこれが、いまの我々が考えなくてはいけ
 ない問題である。野性とは、単なる「自然保護区」にとどまるこ
 とではない。世界そのものが野性なのだ。洋の東西を問わず、文
 明は長いこと自然と衝突を繰り返してきた。そしていま、わけて
 も先進国は、個々の生命だけでなく、地球上の種、エコシステム
 全体を破壊してしまう愚かなパワーを手にしている。」
     (『野性の実践』重松宗育・原成吉 訳、山と渓谷社、2000年6月)


さて、オーストラリア全土に網の目のように広がるソングラインとは何か。
世界がまさに創造されようとしている姿を、アボリジニたちは、どんなふうに歌ったのか。
それは、『ソングライン』を自分で読んで、確かめてみてほしい。
この小説とも旅行記ともエッセイともつかない本は、
私たちに大いなる刺激を与えてくれるだろう。

 ■英治出版関連サイト

なお、『ソングライン』の刊行を記念して、巻末の解説を執筆した
冒険家で写真家・作家の石川直樹さんの【ミニトーク&サイン会】が開かれます。

 ■2009年2月21日(土)14:00 〜 
 ■会場:青山ブックセンター六本木店




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(2007年3月11日 撮影:宮古島 盛加井御嶽にて)


上記『ソングライン』の記事と、掲載写真は、何の関係もありません。
とはいえ、沖縄のあちこちに点在する「御嶽(うたき)」もまた、野性あふれる場所である。
そこには、人間の匂いは極力おさえられ、騒々しいモニュメントなど何もない。
岡本太郎が『沖縄文化論』で指摘しているように、
御嶽には、肩すかしをくらうほど何もない。
何もないからこそ、立ちのぼる大地の精と力を感じとることができるのかもしれない。

(和田文夫)
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2009年01月31日

編集日記(001)2009.1.31(土)

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(一昨年、宮古島で:来間島から前浜をのぞむ、2007年7月11日 撮影)

★タイトルについて

むかし撮った沖縄・宮古島のスナップ写真をみていたとき、
『去年、マリーエンバートで』というフレーズが唐突に口をつ
いてでてきた。

これは、アラン・ロブ=グリエの脚本を、アラン・レネが監督
した映画作品のタイトルである。日本で公開されたのが1964年
5月、もちろん、一度も観た記憶がない。なぜ、ふいに飛び出
してきたのだろう。

編集という仕事で、書名をつけるのは、きわめて重要な作業だ。
タイトルのつけかたいかんで、爆発的に売れたり、さっぱり売
れなかったりする。内容はそれほどでもないのに、タイトルだ
けでベストセラーになる本もけっこうある。もちろん、インパ
クトがあり、その本の内容を的確にあらわし、味わい深いタイ
トルもある。

いきおい、編集者は、人目をひくタイトルをつけようと必死に
なる。それが、良いことのなのか、悪いことなのか、いまだに
よくわからない。しかし、販売のために、という作為が行きす
ぎれば、しっぺがえしをくらうおそれも多い。

それはさておき、僕自身が気に入っているタイトルは、どんな
ものか。
思いつくままに書きだしてみよう。

『人間失格』         太宰治
『闇の中の黒い馬』      埴谷雄高
『我が心は石にあらず』    高橋和己
『風の王国』         五木寛之
『グスコーブドリの伝記』   宮沢賢治
『単純な生活』        阿部昭
『さっきまで優しかった人』  片岡義男
『いい旅を、と誰もが言った』 片岡義男
『汚れた英雄』        大藪春彦
『悪魔が来りて笛を吹く』   横溝正史
『菜の花の沖』        司馬遼太郎
『光と風と夢』        中島敦
『この人を見よ』       フリードリヒ・ニーチェ
『笑う警官』         マイ・シューバル
『海底二万マイル』      ジュール・ベルヌ
『夏への扉』         ロバート・A・ハインライン
『風の谷のナウシカ』     宮崎駿
『百億の昼と千億の夜』    光瀬龍
『キューカムバー・スランバー』ウェザーリポート
『ブルー・イン・グリーン』  マイルス・デイビス
『君がいた夏』        ジョディ・フォスター主演の映画

なんだ、これは・・・。
いったい、なんの関連性があるのか、さっぱり要領をえない。
こんなことでは、編集者失格である。

とはいえ、思い出したタイトルは、やはりその作品自体のすば
らしさと渾然一体となって記憶に格納されているようだ。
ということは、その作品の世界を一言で言い切るタイトルが、
「優れたタイトル」と言えるかもしれない。

ところで、なぜ、「マリーエンバート」だったのか。
たぶん、作品の内容や、タイトルのイメージではなく、その
「音の連なり」が好きだったのではないかと思う。

もし、口ずさめるメロディこそ優れた旋律だというなら、口ず
さめるタイトルこそ、深く、ぼくらの記憶にとどまるものかも
しれない。

そもそも、作家は、タイトルを「いつ」思いつくのだろうか。
タイトルが先か、内容が先か?

ある日、啓示のように降ってくるものなのか。
それとも。
物語を書き進める砂漠のなかで、革袋のなかの酒がじんわりと熟成されるように生まれるのか。
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2008年11月29日

〈ガイアート・ブックフェア〉のご案内

『沖縄正面』の刊行を記念して、ブックファースト秋葉原店のご協力をいただき、
〈ガイアート・コレクション〉のブックフェアを開催しています。

速いもので、明日の日曜日が最終日となります。

ブックファースト秋葉原店内のMadoギャラリーに、

  『沖縄正面』のオリジナル・プリント(21×21cm)が12点
  『孤島の発見』のオリジナル・プリント(32×48cm)が5点

展示されています。
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Madoギャラリーの入口に展示された『沖縄正面』と『孤島の発見』

展示の模様は、英治出版ブログでも、11月1日付11月14日付で、紹介していただきました。

なお、ブックフェア開催中に、書籍をお買上いただいたお客様には、オリジナル・プリントのポストカード(3枚セット)をそれぞれプレゼントしています。
お近くへ行った際には、ぜひお立ち寄りください。

会  場: ブックファースト秋葉原店(アキバ トリム4階)内
      Madoギャラリー
期  間: 11月1日〜11月30日
営業時間: 午前11時〜午後10時
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2006年09月05日

★編集者のひとりごと 008 2006-09-05

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(7月10日、宮古島・池間島にて撮影)

沖縄ブームだそうだ。
美しい海、豊かな人情、暮らしやすい物価・・・

定年退職後の夫婦や、定年を待たずに移住する中高年が増えているという。憧れの土地、というわけだ。南の島には、癒しがあると人はよく言うが、本当だろうか。

どうも胡散臭い。旅行会社の宣伝文句じゃあるまいし。軽々しく「癒し」ということばを使う人には、思考停止の面影がある。

癒しというのは、自分だけが救われればいいという、きわめて我欲の強い考え方だ。現代では、降りかかるストレスに耐えかねて、誰もが癒しを求める。

だが、と思う。
自分が救われることが、そんなに大事なことかね・・・。

てなことをついつい考えてしまうのは、いま、宮古島在住の作家のデビュー作の編集作業に没頭しているからだ。
   
著者は永坂壽(ながさか・ひさし)、本のタイトルは「異物」という。4編の中短編を収めているが、どれも南の島を舞台に繰り広げられる、内地からやってきた人間と島の人間との異和感を掘り下げている。刊行のあかつきには、ぜひ、読んでいただきたい。

かくいう私も、ここ1〜2年、年に3、4回、沖縄を訪れている。

私が感じるのは、癒しではなく、郷愁だ。
世界がまだ複雑になっていないときにあった、ある単純な風景、永劫につづくような繰り返し、そして、太陽に逆らわない、ありのままの感受性だ。その感覚がなになのか、たしかめたくて、沖縄に、いや、正確には、宮古島へ通ってしまう。

人生はそれほど難しくないのだ。
難しくしているのは、じつは我々自身なのだ、
それを一度、じっくりと考えてみる必要がある、
ということを、紺碧の海が教えてくれることもある。




久しぶりにビジネス書を読む。「起業家の本質」という本だ。起業家とは、現状に満足できない人を指す。だから、新しい地平を自ら開拓しようとする。それはビジネスの世界だけの話ではない。芸術家や科学者もそうだし、ことによったら、遺伝子もそんなふうに振る舞っているかもしれない。「起業家」の本質とあるが、ここに書かれた哲学は、新しいことに挑戦しようとする、あらゆる人に通じる考え方だ。

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(『起業家の本質』フィルソン・ハーレル、
英治出版、2006年)

(和田文夫)

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2006年06月01日

★編集者のひとりごと 006 2006-06-01

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逗子の庭の草たち(2006年5月19日 撮影)


7月に発行する予定のビジネス書のDTP作業にはまりこみ、徹夜状態。レイアウトが大幅に変更になったので、100ページほど組んだところで、それをいったん破棄し、やりなおし。

とはいえ、まったく苦にならない。いや、面倒なことはたしかだが。つくづく、この仕事が好きなんだと思う。どんな仕事でもそうだろうが、本をつくる仕事も、繰り返しだ。

一冊つくり終わると、また次の本が始まる。だが、どれ一つとして、同じものはありえないし、同じようにつくるつもりもない。いや、もしそう思うなら、おしまいだ。

プロのスポーツ選手は、みずからに妥協を許したときに、引退を決意するのだろう。問題は、繰り返しのなかに、新たな突破口を見出そうとしているかどうかだ。

夜が去るのが、だいぶ早くなってきた。今朝は上々の天気だった。朝6時半、「ビン・カン」の資源ゴミを出しに行くとき、初夏の空がのぞいていた。

また夏がやってくるのかと思うと、心がぎゅっと弾みをつける。

このところ、寺山修司の「幸福論」を読んでいる。インテリが書斎で理屈をこねくり回して編み出した幸福論を寺山は一蹴する。冒頭、

「私たちの時代に失われてしまっているのは「幸福」ではなくて、「幸福論」である。」

で、ガツンと頭をキックされ、

「政治を軽蔑するものは、軽蔑に価する政治しか持つことができない。幸福の相場を下落させているのは、幸福自身ではなく、むしろ幸福ということばを軽蔑している私たち自身にほかならない。」

という指摘で、ぼくは、活字を追っていた視線を外へ向け、もういちど世界を見直してみようとそそのかされてしまう。

1973年に書かれた本とは思えない。状況は改善しているどころか、ますます軽蔑のキャッチボールだ。ここはひとつ、屈託のない青空を見上げ、肩をほぐすしかない。

梅雨には梅雨の思惑があり、晴れには晴れの魂胆がある。鬱陶しい雨、という不平をたれる前に、形容のついていない世界を虚心坦懐に眺めてみたいものだ。
(和田文夫)
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2006年05月17日

★編集者のひとりごと 005 2006-05-17

今年の春は、曇りの日が多い。気温もあがらず、雨まじりの日がつづく。テレビの気象情報では、鬱陶しいとか、すっきりしないだとか、天気相手に勝手なことをほざいている。だが、庭の草木はそんなことにおかまいなしに、精液のような濃い匂いを発散させている。この時期、草木はよくのびるのだ。「晴れてもよし、降ってもよし、富士の山」と言ったのは中村天風だが、要は心の持ち方ひとつということか。

たしかに曇りがちの日は散歩に出る気がしないが、そのぶん、デスクワークははかどる。長い時間パソコンに向かっているが、仕事場には自分一人だけなので、ミュージックを自由にかけられるところがいい。といっても、BGM的に流しているだけだが。

バッハは思わず聴き入ってしまうので、よくない。グレゴリオ聖歌は、仕事などほうりだして祈りを捧げそうになるので不適切。フラメンコは、昼寝がしたくなるので避けたい。ジャズはコーヒーと酒が飲みたくなるので、昼間は御法度だ。やはり、乳牛の乳の出がよくなるとも言われているモーツァルトがいちばんである。

が、CDは2〜3枚しか持っていないので、すぐにネタ切れになる。そこで最近は、久々にパット・メセニーをかけているが、これがなかなかいい。モーツァルトほど脳天気ではなく、どちらかといえば、透明な感傷感がただよう。「ミズーリの空高く」「ワン・クワイエット・ナイトの2枚を流しているが、なかなかに快適である。そして日が落ちてからは、「ライク・マインズ」を聴いてしまうのは、ご愛敬である。
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2006年05月09日

★編集者のひとりごと 004 2006-05-09

昼食後、烏帽子岳(1257m)を経由してパノラマ台へ登ることになった。本栖湖が標高900メートルなので、烏帽子岳までは、標高差357メートルを登る。参加者は、Hさん、Jさん、Yさんと僕の4人。リュックなどもたず、身一つなので、気楽なものだ。

と思って、健脚のHさんと同じペースで歩いていたら、酸素が減った金魚鉢にいる金魚のようになる。胸は苦しく、足が思うように前に出ないで、頭の芯がもうろうとしてくる。情けない。デスクワークばかりで運動せず、おまけに、自宅オフィスは禁煙席ではないので、タバコ吸い放題。

そんな習慣が、からだのすみずみを錆びつかせる。頭の自堕落に、からだが反旗をひるがえしたともいえる。さすがに落ちこぼれた自分をつくろう気力もなく、先へ行ってもらう。カッコをつけるには、体力がいるものだと思い知る。

雑木林のつづら折れの登山道は、気品があり、ときどき立ち止まっては、斜面の新緑、サツキの桃色などを楽しむ。それほど太くはないが、ブナの姿も見える。

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Hさんをかなり待たせて、ようやく烏帽子岳に至り着く。そこからパノラマ台までは20分ほどだが、棄権して、烏帽子岳の木の根元に座って、居眠りをきめこむ。少し熟睡したが、凍るような風に吹かれて目が覚める。

静かだ。正面には富士が見えるはずだが、沸き上がる雲に覆われて、白いスクリーンが広がるばかり。

下りは、ブレーキをかける足が疲労をましていくが、無事にテントサイトへ戻る。Jさんと、キャンプ場の奥へ車で薪拾いに出かける。たっぷりと枯れ木を仕込んで、焚き火と夕食の支度にかかる。

この日は風も弱く、焚き火びよりだ。燃えさかる炎を無言で見つめるこのひとときが、何にも代え難いほど充実しているのは、なぜだろう。

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2006年05月08日

★編集者のひとりごと 003 2006-05-08

6時前に目が覚める。
寒い。

一人用の狭いテントのなかで、バリのお香を焚きながら、
日課のヨーガを行う。
健康のためというより、二日酔い軽減という下心が情けない。

7時を過ぎると、朝食だ。
Hさん(男性)が飯ごうで炊くごはんはとても美味しく、
みそ汁が五臓六腑に染みわたる。
   
食後、全員で、本栖湖畔を散策。
水際に、マガモのつがいがやってくる。
餌付けされているらしく、警戒心が希薄だ。

高原の季節感というものは、不思議である。
平地の冬とも春ともちがう、脱色された清涼感が漂う。

このところ、旅といえば、南の島ばかり行っているので、
新鮮な気分だ。

湖は静かで、鱗のようなさざなみが立つ。
竜ヶ岳のふもとの新緑や、中腹に散在している桜が
すがすがしい。

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記念撮影をしたあと、本栖湖を左回りで一周する。
北岸に、富士の撮影ポイントがある。
なんでも、500円札の絵柄になった景観だという。
さすがに、記念撮影している人でひきもきらない。

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富士山というのは、いったい何なのだろうか。
日本でいちばん高い山ということだけなのだろうか。

六本木ヒルズや国会議事堂や皇居には感じられない
実在感、あるいは畏敬の念、人智の枠外、
そんなことが、ちらりと脳裏をかすめる。

今回は一泊で帰宅するNさん家族を途中で見送り、
テントサイトへ戻ると、はや昼食の支度にとりかかる。

野外で寝起きすると、とにかく食欲が旺盛になる。
食うことが、楽しみであり、仕事のひとつになる。

考えてみると、野営生活というのは、
暮らしの基本というべき記憶を再確認するようなものだ。

眠り、食べ、火をおこし、笑い、話し、星を眺める。
ただ生きているだけで意味がある、あるいは、
生きていることに無闇な意味づけをしない、
そんな野生の鉄則を思い知らされる気がする。  
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2006年05月07日

★編集者のひとりごと 002 2006-05-07

本栖湖へキャンプに行く。
ここ数年、年に一度の開催になってしまったが、
それゆえにこそと言うべきか、貴重なイベントになっている。

珍しく朝早く起きる。
といっても、7時半だから、のんきなものだ。
歓声をあげたくなるほどの晴天。
朝の陽射しがこれほど鋭利だとは。

それもそのはず、昨日は雷鳴と暴風雨、
おまけに地震まであった。
大気のよごれを、すっかり吹き飛ばしてくれたおかげだ。

さて、でかけようと思い、縁側をあとにすると、
庭のつづじが見事な色と香りを放っている。
おもわず写真をとる。

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長いこと、雨男と言われてきたが、
このところ、天候に恵まれることが多い。
どういう風の吹き回しか。

海沿いの134号線は、スムーズに流れていた。
稲村ヶ崎の切り通しを越えたとたん、正面にドカンと富士。

圧巻だ。
おもわずカメラをとりだし、
運転しながら、ファンインダーなど見ないで適当に撮影する。

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が、もっと驚いたのは、相模湾の水平線のきわが正確に見え、
沖を疾走するウィンドサーフィンの一艘一艘が
はっきり見えたことだった。

すべてがくっきりと光に満ちている。
小学生のときの初夏の光景を思い出していた。
歳を重ねて、おのれの目がかすんでいたわけでは
なかったことに、一抹の喜びを感じた。

鵠沼で、Yさんを拾う。1年ぶりだ。
ところどころ渋滞はあったものの、近況など報告しあい、
4時ごろ、本栖湖キャンプ場に到着。

2日からの先発組を含めて、すでに友人7人が到着していた。
夜半から、やや風足が強まり、寒さに震えるも、
焚き火がたっぷりと体をあたためてくれた。
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2006年03月17日

★編集者のひとりごと 001 2006-03-17

春らんまんである。

とはいっても、三寒四温で、気候はジグザグに進む。
今年は冬が厳しかったせいか、春の訪れに敏感になる。
   
最近では、気候の異変が感じられると、
異常気象だとか、温暖化だとか、いちいちうるさい。

1年中、サーモスタットの助けで一定の気温のなかで暮らすほうが、どれほど異常なのか、よく考えてほしいものだ。地球ができてからの46億年を考えれば、ここ2、3千年は、奇跡といえるほど安定した環境を保っているのではないだろうか。

などと言うわりに、私は寒がりで、今年の冬はさすがにふるえ、関東大震災(1923年/大正12年)以前に建てられた我が仮住まいの冷え込みは体にこたえ、破れた障子を張り直したり、すきまを補修したり、廊下にジョイントマットを敷いたりと、こざかしくやり過ごしてきた。

そんな日々だったので、久しぶりの好天にこころも浮きたち、午後おそく海岸へ出てみた。

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風が強く、波も荒い。
金曜日なのに、そんな状況を事前に察したサーファーやウインドサーファーたちで、海はにぎやかだ。

いつもなら、すぐ砕けてしまう波が、ねばり強く土俵際で持ちこたえ、伸びあがった波頭が、西風にあおられて飛沫を舞いあげる。かなたの富士は、うっすらと春霞におおわれている。

あまりに気持ちがいいので、きずなの森へと向かう。途中、郷土資料館の庭を通ると、ユキヤナギが、文字通り雪をまとったヤナギのように、枝を揺らせていた。

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郷土資料館の庭から山道へはいる。このあたりの山道は、何本も錯綜していて、木々が密生していない場所には、富士見の休憩所がしつらえてある。

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急勾配の山道をのぼったところに、お気に入り場所がある。
木製のテーブルとベンチが置かれて、相模湾を眼下に見下ろすことができる。

最近、熱中している伊坂幸太郎の「重力ピエロ」を読みつつ、
暮れゆく相模湾の遠景を楽しんだ。

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春らんまんである。
posted by サンシロウ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ★編集日記