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小暑もすでに末候。
とはいえ、梅雨が開けると、秋が来るような錯覚を覚える。
笑ってはいけない。
8月7日になれば立秋の声を聞くのだ。
コロナの影響で、今年、海の家は設営されない。
夏の宵の口に、こんなに広々とした浜辺にいるのは、気持ちよい。
昔、こんな話を聞いたことがある。誰が、何のために言ったのかは、すっかり忘れてしまったが。
「人が入れば入るほどきれいになるのが西洋で、人が入れば入るほどきたなくなるのが東洋である」と。
たぶん、西洋人が言ったものにちがいない。東洋をバカにしている。
だが、腹立たしいことに、そんな気もしてくる。
海の家もなく、人の少ない逗子の浜辺は、きれいに、清楚に、静かに見える。
さて。
池波先生の文春文庫『鬼平犯科帳 第2巻』を読了し、まだしばらく江戸の本所界隈に長居したくなり、必死に本棚を探してみたが、第1巻や第3巻が見つからない。こうした場面に何度も遭遇している。
結局、本を買うのだが、あとで同じ文庫本が3冊とか4冊、本棚に並ぶことになる。まあそれも味わいだと思い、調べると、活字の大きな文庫判の「決定版」が出ている。老境に入った私には、何よりだ。そして、この文春文庫の「決定版」の第1巻には新たに解説が付されているという。解説を寄せているのは、なんと、植草甚一だったので、すぐに買ってしまった。本が届いて、真っ先に「解説」を読むのもどうかと思うが、読む。さすが植草さん。鬼平の良さを、ミステリということだけでなく「リラックス」という観点から評価している。
現代社会というのは、どうでもいいことに先端技術を使い、神経症的な管理を突き詰めた結果、私たちは気が休まることなく、生産と消費という経済活動に追い立てられている。旅や観光ですら、経済活動の一部に組み込まれているのだ。奇しくも、コロナがそれを教えてくれた。そんななか、携帯電話も電気自動車も新幹線も飛行機もテレビもネットもない江戸の本所界隈に移動して、日々をささやかに、それでいて生き生きと生きている江戸庶民の姿を想像体験しながら(実際はどうであったか知るよしもないが)、私は安堵の溜め息をもらす。人間の幸福は、文明や金や権力によって実現するものではないんだな、と。
裁判もおこなわず、自らの裁量で悪人を処分してしまう鬼平に幕閣から不満の声があがっていることに対して、鬼平は、
「いまのところ、一の悪のために十の善がほろびることは見のがせぬ」
と啖呵をきる。そこに私たちは、決定的な善を体現する人物が権力をもったときの生き様を垣間見る。鬼平ですら、失敗もするし、まちがうこともある。だが、鬼平を英雄の主人公としてではなく、他の登場人物とおなじ視線で見る池波の手法があってこそ、この物語が多くの読み手を魅了しているのではないか。ちなみに、テレビ版の鬼平を演じる吉右衛門は、学生のときカミュを愛読し、歌舞伎役者にならなければ仏蘭西へ行って仏文を学びたかったそうだ。まさに、鬼平がこの時代に生まれ変わってきたような塩梅だ。
小暑/末候(33候:7月17〜21日)
鷹すなわち、わざを習う。
日の出 4:40(前日 4:39)
日の入 18:55(前日 18:56)
posted by サンシロウ at 23:28|
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★雲を眺めに逗子海岸